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この世のものは
すべて周波数であると気付いた日から
​幸せな状態が現実になる
不思議な出来事の流れを
​楽しめるようになりました。

 

幼少期は、両親、祖母、妹の5人家族で育ち、私はどちらかというと、落ち着きのない、いい意味なら冒険心旺盛、怪我をしてもやってみたいことは何でもする、みんなが笑ってるのが好きだから、お茶らけることも面白がってやってた子どもでした。

思春期に、誰かに何かを言われたのか、女の子がそれではだめなのかもと思い急におとなしい子になって、当時は言いたいことが言えなくなってしまってましたが、自分が好きなスポーツにはのめり込んで、小中学はソフトボール部、高校では器械体操部に所属しどちらもキャプテンを体験。苦しくて、よく仲間と話し合ったりして、苦楽を共にその頃の友人とは今も仲良くしてもらっています。

同時に、漫画を描くのも大好きな子どもでした。小学校1年生で、「ドラえもん」の単行本を、たまたま本屋に連れて行ってくれた叔母に買ってもらい衝撃を受けて、それから漫画三昧。服を買ってもらうんなら、漫画買って!ぐらいの感覚で、将来は漫画家になりたかったので、鉛筆書きですがオリジナルストーリーの漫画を描いたりして楽しんでいました。

さらに、音楽も大好きで、スポーツして漫画描いているときに、チェッカーズがデビューして、一瞬で大ファンに。中学の時、友達と初ライブ参加!友達のお父さんに会場まで連れて行ってもらったの、安心して楽しめたんやなと今改めて感謝です。

そんな学生時代を過ごし、進路の話をする時期になり「マンガ家」「イラストを描く仕事に就きたい」と三者面談で話をしていました。母親が看護師なので、あなたのためを思うと、不安定な絵の道よりも、看護の道が安心と、担任からも説得を受けていたその時期に、祖母が骨折で入院。転倒したと家に帰ってきたとき、家には私しかいなくて歩行介助が必要だったりわからないまま手を貸していたんですが、この出来事で「…看護の知識って大切なんかな」と痛感し、看護の道に進むことになりました。

 

看護師として、仕事をしていることはとてもやりがいがあり、知識が自分だけでななくて、家族や周りの方などにも役立てることができるので、ずっと、辞めずに働いていたんですが、実は紆余曲折でした。

看護師として働き始めて3年目の初夏のころ、26歳でリウマチを発症しました。痛みで気を失いかける毎日。ほぼ寝たきりの状態の日々も。でもこの痛さを知ったのは「患者さんの痛みを知ること」だったと思うようにし、実際バロメーターが難しい「痛み」がよくわかるようになりました。

その状態で、痛み止めを飲みながらの仕事再開。結婚2年を過ぎて、子供を授かりたいと思い主治医に相談して、リウマチ薬の休薬していました。ところが、1年後待望の自然妊娠の流産。後に不妊症と不育症(抗リン皮質抗体症候群)も発覚。専門の病院で、不妊治療を受けていました。その後も、突発性難聴、メニエール病、不整脈(期外収縮)など、心身の不調がピークになっていました。

それから3年、指の変形が進んでも、それでも仕事をつづけながら家事もこなして治療にも通い、

父の癌発覚や、当時の勤務病院の介護施設で終末期を通して「死」を考えたりしましたが、不妊治療からは、「人間に生まれてくること自体奇跡!」と、今生きてることの「生」がすごくありがたいものだと感じてました。​

でも諦めないで治療を続けて、4年後待望の第一子誕生です!

次は子育ての試練。家計が大変なので仕事復帰してからの「登園拒否」。

​普通の登園拒否とは何か違う違和感とともに小児科受診すると、自閉症スペクトラム障害との診断でした。

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